1980年代のコンピュータ=マイコン
僕にとってコンピュータは特別な存在です。嘗てマイコンと呼ばれた時代(1983年ぐらい?)からの付き合いとなります。当時のマイコンは今のように標準化は進んでおらず、各社のマイコンで動作するソフトウェアは、各社のマイコンでしか動きません。そもそも現在のようなウィンドウシステムが立ち上がるわけではなく、代わりにBASICと呼ばれるプログラミング言語が立ち上がります。実は旧アイディア&&テクノロジーでもエッセイを書いたのですが、嘗てのコンピュータはソフトウェアを動かすものではなく、プログラミングするものでした。なので、プログラミングできないと何も出来ません。パッケージソフトウェアも販売していましたが、「他の人が作ったプログラムを使う事も出来る」と言う体裁に近く、だんだんとソフトウェアの価値に気がつきつつある時代ではあったものの、マイコン(パソコン)は基本的にプログラミングツールでした。自分の必要なものを自分のプログラミングで満たすわけです。
当時のプログラミング事情
プログラミング言語として採用されていたBASICですが、完全にはコンピュータの性能を引き出せるものではありませんでした。カジュアルにプログラミング出来ることを目指した言語であったため、今ほどのハードウェア性能のない中で、PHPやPythonと言った現在のスクリプト言語級の処理を行おうとしていたのです。具体的にはインタープリタ方式と言って、コンピュータがプログラムを理解しながら実行する言わば同時通訳方式です。当時、パッケージソフトウェアなどで求められる品質を実装するためには、出来る限り直接コンピュータがわかる言葉で表現され、且つ事前に翻訳を完了する方式(コンパイル方式)である、アセンブリ言語で書く必要があったのです。しかし、当時のパソコン購入時に付いてくるマニュアルには、それらハードウェアに関する情報はもとより、そもそもBASIC言語についてしか記述がないのです!
コンピュータ雑誌がプログラミング情報を補填
つまり、当時まともなソフトウェアを作るためには、製品が紹介する真っ当なやり方では作ることが出来ません。NEC(PC-xx01シリーズ)、富士通(FMシリーズ)、シャープ(mzシリーズ、X1シリーズ)、東芝、日立、ソニー、松下、なんとバンダイまで、群雄割拠のごとく様々あったパソコンハードウェアの個別仕様に基づいて、ハードウェアを駆使するアセンブリ言語で記述する必要があります。その事が逆に、周辺にその知識を補強する雑誌や書籍に様々な情報を出していく事になります。今をときめくソフトバンクも各社パソコンに特化した雑誌『Oh mz!』や『Oh PC!』と言ったパソコン雑誌を輩出していましたし、老舗のアスキーもかなりマニアックなソフトウェア記事を提供していました。技術評論社の『The BASIC』誌は全くBASICじゃない、かなり硬派な技術情報誌でした。中でも僕が注目したい雑誌はソフトウェアの投稿型雑誌であった『月刊I/O』(アイ・オー)、『マイコンBASICマガジン』の二誌です。
『月刊I/O』
『月刊I/O』は、かのアスキー元社長、昔は孫正義氏のライバルとされていたITベンチャーの旗手、西和彦氏が立ち上げた雑誌と聞いています。当時のパソコンは仕事や趣味のツールと言うよりは、プログラミングしたり、ハードウェアで設計したりして自分の好きにする存在であった背景から、今からは想像もつかないほど極めて本格的な投稿記事で埋め尽くされていました。例えて言うなら『トランジスタ技術』ぐらいの濃い内容だったことを覚えています。パソコンに繋ぐハードウェアの基板図とか普通に掲載されていました。一方、表示は左に示すようにナンパなものでしたが。なぜかSF映画評(なぜか『レナードの朝』がSFとして紹介されていて印象に残ってます)や投稿イラスト(これがまたどういうわけか美少女イラストだ・・)が掲載されていたり。秋葉原マップ、日本橋マップ(大阪)と言う、電気街のパソコン販売状況も本誌の売りでした。そんな『月刊I/O』の注目コーナーは、なんといってもパソコンゲームの投稿コーナー。フルアセンブラで組まれ、リストが掲載されています。しかもアセンブリ言語ではなく、機械語のダンプコード---80 21 33 0D A2 と言う具合に延々と16進数の羅列が、数十ページに渡って---が並んでいます。当時はインターネットなどと言うものは世間になく、ダウンロードなどと言う発想はないため、これら掲載データを、購読者が自分の手で打ち込んだわけです。『月刊I/O』の工学社では、当時コムパックと言うソフトウェア販売サービスを持っており、打ち込むのが面倒な方は、そちらでパッケージを買うことも出来ました。全部ではなかったかも知れません。しかし、いずれにしても、この雑誌が、パソコンやゲーム黎明期のクリエイター達の受け皿になっていたことは間違いありません。ちなみに紆余曲折しながらもまだ続いている雑誌です。有名書店に行かないとなかなか見かけないですけど。
『マイコンBASICマガジン』
『マイコンBASICマガジン』は、電波新聞社から発刊されていた、BASICによるゲームプログラムの投稿雑誌です。と言うと、先ほどカジュアルな言語と説明したBASIC言語ですので、簡単なものが多いのかと言うと、そんなことはありません。極めてレベルの高いゲームプログラムが掲載され、実際、掲載されるほど実力のあるプログラマはそうは多くなかったと思われるほどです。今だったら iPhone の AppStore に掲載してきっとそこそこ儲けられたんじゃないか、と思うほどの努力っぷりです。『月刊 I/O』ほどの深さはなかったですが、前述の通り、まともなゲームソフトウェアを組むためには、少なくともVRAMと言う表示ハードウェアの考え方を理解している必要があり、場合によってはBASICから機械語を呼び出すような荒業も日常的に掲載されていました。ですので、正直なところ、マイコンBASICマガジンのプログラムはBASIC言語のサンプルとしてはあまり役に立たなかったような覚えがあります。レベルが高すぎてハードウェアの知識をちゃんとフォローしないと読みきれないことも。しかし、それらは当時のプログラマが切磋琢磨する場として機能していたと考えられ、実際、投稿有名人が職業としてソフトウェア・エンジニアになった話はそこそこ耳にします。中には企業で大きな実績を残した方もおられたのではないでしょうか。
エンジニアのコミュニティとして機能
上記二誌は、インターネットなどの通信の無かった時代に於いて、エンジニアのコミュニティとしての役割を担っていたと考えられます。エンジニアないしはエンジニアの卵に切磋琢磨の場であり、情報交換の場であり、創発を促す場になっていたのではないでしょうか。特徴的であることは、インターネットが一般となった現代においては個人が直接多数に公開できるのに対し、当時は雑誌媒体がその中央となって個々とコミュニケーションしていた点です。良い意味では、エンジニアに一定の方向を示す場として機能していたと思いますし、悪い意味では、本当の意味で自由でイノベーティブになものは生まれなかったようにも思います。---しかし、いずれにしても、エンジニアの切磋琢磨と創発、共有が、企業や研究機関のような場所ではなく、多くの人に知られずに、これら雑誌と言うオープンな場でなされていたことは特筆するべき事項だと思うのです。
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